Via Francigena(31)LutryからLausanneへ

お久しぶりのVia Francigenaです。今回はLutry(地図右端)からLausanne(左端)まで、いつもとは逆向きに歩いています。

右端の赤枠がLutry駅

常に湖畔。全行程、舗装してあるか、コンクリート面の道で、気合を入れたハイキングや巡礼道ではなく、市民のちょっとした散歩道なので常に人が歩いています。

Lutry(リュトゥリ)駅。Lutryとその東側Veveyにかけてブドウ畑の斜面で名高いLavaux(ラヴォー)地域と定義されていますが、今回は西側へ。ラヴォーは次回以降に。

駅から湖畔に下りていきます。ちなみに今回歩いてのは10月下旬、秋の紅葉がちょっと見られます。

今回は湖畔に下りて右に向かい、

Lutryの旧市街に寄っていきます。

教会の中には

ブドウを収穫しているステンドグラス

とても雰囲気のある小さいけど素敵な町だなあ、といつも思う。

船着き場がある広場に出て、

湖畔の道を歩きます。

振り返るとLavauxのブドウ畑の斜面がある丘。

Lutry駅から30分ほど歩いたところでハイキング道の分岐の表示が出てきます。湖畔を歩き続けるとPullyの駅は通りませんが、Pully駅へ上って行くハイキング表示付きの道への分岐表示があります。ちなみにPully駅は湖畔から50mほど高い所にあるので、駅近くの教会の前からの湖&対岸の山の眺めもまた良いです。

右側、赤で囲んだのがPully駅

生垣の右側は素敵なお宅が続きますが、

その中でもひと際広々とした芝生と、そのはるか向こうにたたずむお屋敷。General Guisanが住んでいたお屋敷で現在はVerte Rive Centre General Guisan。建物&庭を借り切ってパーティーなどを開けます。建物の一部は将軍を記念した博物館になっていて、事前予約で見学可。Guisan将軍は第二次世界大戦時のスイスの将軍で、スイスって中立だから参戦していないんでしょ、というなかれ。参戦せずとも国防、国境を守って攻め込ませないようにしたのがGuisan将軍で、スイスを歩いていると将軍の名を冠した要塞跡だとか、それを巡るコースだとかに出くわします。

Tour Haldimand、塔です。近くに小川があり、そこがPullyとLausanneの境界線。

ここからはM2のOuchy駅まで花が咲き誇る散歩道ですが、

今日はそこから少し離れて、右側の芝生面を上がったところParc de Denantou内を歩いてみます。奥にあるのがタイ王室寄贈のパビリオン。タイのプミポン前国王は国王になる前の時期をLausanneで過ごしていました。パビリオンは2005年に国王の在位60年、スイスとタイの国交75周年を記念して建てられました。

さてこの先にはMusée Olympique,オリンピック博物館。1993年の開館なのでちょうど30周年。今から10年ほど前に訪問した時、内部の壁には500万円だったかな?相当の金額を寄付した企業の名を冠したプレートがずらっとあって、日本の企業のが沢山ありました(ずば抜けて多かった)。ところがその後の大改修の際に新たに寄付を募ったらしく、日本企業のプレートはほぼなくなり、某国のプレートにキレイに入れ替わっておりました。

また、10年前には博物館内の2つあるホールの一つが「Nagano」という名でした。もう一つのホールはクーベルタンとかサラマンチとかそんな名だったが忘れた。壁に企業名のプレート付けるだけでも相当な額なのに、一体いくらお金を出すとホールに名前が付くのかしら?長野五輪、帳簿紛失したのでしたよね・・・長野ホールの名も改修後は無くなってましたよ。私は日本に帰国時には毎回長野に墓参りに訪れ、戸籍が長野県にあったなど、長野を深く愛しておりますが、悲しい。

ここからの写真は2023年4月 OuchyからPullyへ向かう道

Lausanneでは地下鉄Ouchyの名にいつの間にかOlympiqueが付け加わったり、CFFの駅の正面にCité Olympique(オリンピック都市)とか掲げてますが、一般市民はIOC(ローザンヌに本部がある)は金の亡者に過ぎぬと全然親しみを持ってないよ(おそらく大多数は)!

CGNの船。名前はGeneral Guisan

それはともかく、Lausanne市内には「国際フィギュアスケート連盟」などの各種スポーツ連盟の総本部があり、歩いてて偶々出くわすと へ~ と思います。片っ端から回って写真を撮れば記事に出来そう。やらないけど。

左端にちょこっと写ってるのが現在はホテル、かつてのChateau d’Ouchy。

上の写真、左端にちょこっと写ってるのがホテルChateau d’Ouchy調印があったのはPalais de Rumineでしたが、1923年、ここに要人達が宿泊してローザンヌ条約について話し合いました。先月末には条約100年を記念して大規模な抗議デモがありました。ローザンヌ条約により、その前のセーブル条約の内容が覆り、クルド人国家の夢が断たれ、また100~150万人ものギリシャ人が、トルコ領に変わった先祖代々の地からの移動を余儀なくされました(その逆は50万人)。

写真と歩行は2022年10月下旬

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