FaidoからQuinto、そしてAiroloへと北西に歩きます。
前回分を読んだ方の中で、Gottardo山塊の南はTicino州のはずなのに、なぜに北側のUri州が道を開発しているんだ?と疑問を持った方、賢明です!1440年頃から1798年までAiroloからBiascaまでのLeventina谷はそっくりUri州だったのです。
Ticino州はイタリア語のみを公用語とするスイスで唯一の州です。Ticino州の一部には今のValais州から山を越えて移住してきたWalserが住むドイツ語を話す集落Bosco-Grinがあります。
グラウビュンデン州でもイタリア語を公用語とする地域もあるが、他の言語も話されていて、イタリア語地域は少数派です。Ticino州の人口は35万ほど、スイスの全人口の4%、8割以上がイタリア語を第一言語とするスイスで唯一の州です。
Ticino州は現在のイタリアと接しているものの、ローマ帝国の一部となったのはアウグストゥス帝の時代と割と遅いです。中世時代はComo(コモ)とMilan(ミラノ)公国の影響下にありました。Gottardo峠が「使える」ようになると、峠の北側、スイスの前身となる「連邦」軍による併合が始まります。1440年にはUri軍とミラノ軍との間でのGiornicoの戦いによりLeventina地方、谷に沿った細長い部分がUri州の領土になり、よってPiottino峡谷沿いの通路がUriによって整備されるわけです。
1500年にはLeventinaの南にあるBellinzonaとRiviera地方がUri、Schwyz、Nidwalden(峠に最も近い連邦最初の3州ですね)の3州のものになり、1512年から1798年の間は現在のTicin州の残りの全領域に当たる部分が連邦12州の共有領土となります。
Quintoの町に着きました。中世からあるSanti Pietro e Paoloの教会。そうそうTicino州はカトリックが75%と圧倒的に強い州です。よって教会内が割と派手。
QuintoにはLeventina様式の古い木の家が多く残っています。
歩行・写真は2013年10月下旬