Via Gottardo (12) Surseeのちょっと手前まで

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Dagmersellenの街を通り抜け、高速道路の上を越えます。ここからはしばらくの間、鉄道と高速道路の間に横たわる丘陵を縦走します。下に見えるのは配送大手の集積地。交通の要所なので。丘の上は人家も眺めの良いレストランも何もありません。ひたすら森の中の道を歩きます。遠くには雪を抱いた山々と次の目的地でもあるSempach湖が見えてきます。前回に続いて歴史のお話。この先の先にあるLuzern(ルツェルン)の町は大きな湖のほとりに位置し、古くからの通商路の重要地点です。1231年にゴッタルド峠手前の難所に道が開かれ安全に通れるようになり峠の利用価値が高まると、峠への入り口であるFlüelenと湖でつながっているLuzernの重要度もまた高まりました。Luzernは主権を維持しながら周囲への影響力を強め、通行税などをめぐり、ボスであるハプスブルグ家との間に軋轢が生じます。

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その後スイスと呼ばれるようになる領域全域は1032年より広大な神聖ローマ帝国の一部でした。その神聖ローマ帝国内で13世紀より、ハプスブルグ家がオーストリアとドイツ語圏のスイスに当たる領域を支配していました。

その後「Vierwaldstättersee 四つの州の湖(Wald(森)stätten(州・国)」と呼ばれるようになる湖の周りに位置する三つの州(Uri、Schwyz, Unterwalden)は1291年に盟約を結びます。めぼしい産業のなかったこれらの山岳地帯にとって、通行が激増しているGottardo峠の利権は何としても守りたいものでした。しかしこのビジネスチャンスをハプスブルク家が見逃すはずはありません。

神聖ローマ帝国からの独立なんてことは考えてなかったでしょう。大した資源がない、大したことがない地域でしたが、だからこそ虎の子の通行税は丸ごとほしい。1291年に結ばれた三州の盟約に、目的を同じくする隣のLuzernが1332年に加わります。そして1386年のSempach(ゼンパッハ)の戦いでハプスブルグを追っ払うのですが、それは次回のお話。

AargauはLuzernとハプスブルグとの間が険悪になるとハプスブルグへの忠誠を誓い、Sempachの戦いの2年後の1388年には最初の三州から拡大した8州連合の一州であるBern(ベルン)に包囲されるも持ちこたえます。しかしハプスブルグと8州連合との間に和平が調印されたのち、1415年にはついにBernの手に落ちます。Olten近くの城にBernの熊マークがついた石碑が残ってたのはこのためでしょう。
ちなみに最初の3州から次々に賛同する州が増えていって~というEU(ヨーロッパ連合)のような平和(?)的で平等(?)な拡大を思いがちですが、特定の州が他州を制圧した過去も大ありです。Aargauに限らずVaud州も一時期Bernの支配下で、その後時が流れてナポレオン以降にVaud州が独立した際に代償にBern州は今のJura地域をもらい、その後Juraの一部は独立したが・・・Aargauの州境界、領有地は変遷がありましたが、1803年に独立した州となりました。
写真はお子様が生まれたばかりの家の前。誕生日と名前を大きく掲げます ルツェルン州で特によく見る気がする。

Dagmersellenから3時間のSt.Erhardで私はハイキングを切り上げました。5時間半、ほぼ休まず歩き続けてさすがに疲れ果てました。残り3㎞、40分の道のりを続ける気になれず、現在に至るまでこの部分は未踏。St.Erhard駅は無人駅で、小中学生くらいの3人組が私を見て「コニチワ!」と言ってきたのを覚えています。3人とも今では大きくなっていることであろう。

歩行と写真 2013年6月初旬

ZofingenからSurseeまで25.6㎞、所要時間 6時間50分と書いてある。

公式サイト Via Gottardo <5> ZofingenからSursee

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