ちょっとだけ歴史(個人的意見全開の)

スイスという国が現在とほぼ同様な国境線で独立が認められたのは、1815年、ナポレオン失脚後に行われたウィーン会議の際と考えることができます。それより昔の1291年にSchwyz、Unterwalden、Uriの中央部に位置する3つの州がハプスブルグ家に対して自治を守るために同盟を結んだのがスイスの始まりとされていて、この時の話はウィリアム・テルの伝説になっています。

2013年6月の国民投票ポスター 各政党が案件に対し賛成か反対を表明して訴える

さて、4つの言語が話されるという、かなりバラバラな集合体にも見える今現在のスイスを形成する部分がなぜ独立を保てたのか?周囲の国々の一部になっていないのは何故か?実際、周辺の強大な勢力であったローマ帝国、フランスの勢力、ハプスブルグ家、ベネチア勢力、ミラノ勢力、プロシアさらにはスペイン等々の支配や影響下には度々さらされていました。

2013年6月の国民投票ポスター 難民法改正 可決

スイスがスイスとして独立を認められたのはナポレオンが一度は定めた国境線と、ナポレオン失脚後の複雑なヨーロッパの力関係の中の偶然にもよっています。スイスは人工的な国家であると明言するスイス人もいるほどですが、それでも、ウィーン会議までの長い年月の間、3つの州から始まった同盟が拡大して自治を保とうとしてきたのは確かです。

2013年6月の国民投票 難民法改正 可決

周辺勢力に完全に併合されることなく、ある程度の自治が可能であった理由、個人的な意見全開で語ると、その1:なんたって山 その2:鉱物資源ほぼ無しの貧しい土地(と思われていた) ことが大きいと思います。

2013年11月の国民投票のポスター 「高速道路の値上げ」と「企業内の最低賃金と最高賃金の差を12倍までとする」 両方とも否決

氷河が覆ってたわけで、肥沃な耕作地とは程遠い。金とか鉄とか石炭でも出れば周辺勢力が全力を尽くして手に入れ手放さなかったでしょうが、そのようなものは出なかった。山で隔たれた痩せた土地を苦労して制圧して支配し続けるよりは、通り道としてとても重要なので、地の利のある山の民に峠道の普請や荷役の中継地点としてのお仕事を任せたほうが安上がりでない?

Via Sbrinz, Via Albula/Berninaもそうでしたが、集落を結んで歩く昔からの道がスイスを縦断していて、これを今は楽しみのために歩けます。これらの山間の集落の多くは、こじんまりとしていて、あっという間に通り抜けできる規模です。どうして町が大きくならなかったのか?周辺のわずかな耕作地でまかなえる人口は限られていて、あぶれた人は出稼ぎや移住、傭兵となって村を出ていった・・・このまま話を続けたいところですが、文章だけで長いので、今日はここらでお終いにします。

2013年11月の国民投票のポスター

一気に飛んですっかりお金持ちの国になったスイス。2018年11月25日のスイスの国民投票で、「牛の角を強制的に取り除くことの是非」が論じられたことが日本のヤフーニュースにも載りましたが、この日審査された別の案件:右派保守政党が提案した「国内法優先イニシアティブー国内法が国際法に優先するべき、スイスは自分の国のことを自分で決めたい」、これは66%の反対(この手の案件にしては高い̚否定率)で否決されました。周辺諸国との協調しながら生き抜くしか未来はない、と国民が表明した、と受け取れます。

3回にわたった長い文章、読んでいただき感謝に堪えません。次回からは「馬を見に行くハイキング」です。

国内法優先イニシアチブの説明、Swissinfoのサイト:

国内法優先イニシアチブとは

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