L’Escalade(3)ジュネーブの存在理由 Cité de Calvin

Escaladeの3日間だけ通り抜けられる小道Passage de Monetier 建物に囲まれた中庭には武具の展示があり、説明してくれます

ジュネーブを言い表すのに「Cité de Calvin、カルヴァンの町」があります。Calvin(カルヴァン)とは世界史に出てくる宗教改革の人。ルターが今のドイツに当たる地域で、当時絶対権力だったキリスト教教会に対し、異議を申し立てたのが1517年。金儲けのために免罪符を売ったりするのは変だ!

通り抜け道は建物のすぐ脇を通っています。

改革、抵抗をする人の意味での「プロテスタント」です。ルターの運動は他地域へも広がり、今のスイスにあたる地域でも、チューリッヒでZwingli(ツヴィングリ)が1519年に賛同し、その勢いは近隣州に広まりました。

本当に細い部分もあります

高さも

Genève(ジュネーブ)の所領は長年Genevois候とSavoie候の間で争われていましたが、1535年にBern(ベルン)に近づき経済・政治的に独立します。16世紀中ごろからは街を城壁で囲み、外敵からの侵入に備えました。

出口 建物と建物との間の細い隙間が見えます

ジュネーブはカトリックの司教を追放、1536年よりフランスからの亡命者Calvinを招くと、Calvinは宗教と政治が一体の独裁神権政治を行います。1559年にはジュネーブ大学(建物は現在は高等学校となっていて、以前訪問した時の写真はここ)が建設され、プロテスタントの総本山となりました。

Temple de St-Gervaisは駅からすぐ

仕事は美徳(長々というと、禁欲的に世俗の職業に従事することが地上における使命=天職だ)、とするプロテスタントの考え方は当時力をつけてきた中産市民や知識人から支持されました。教会はローマ教皇への隷属から解放され、バーゼル、チューリッヒ、ジュネーブなどでは街が自治を得、発展するようになります。

Temple de St-Gervais

Savoieは長年機会を伺っていましたが、ついに1602年、2000の兵(大半は傭兵)をもって当時の人口12000人のジュネーブに闇討ちを仕掛けました。兵力に勝るSavoieになぜ女子供を含む12000人の人口しかないジュネーブが勝てたのか?傭兵は金で雇われていただけだが、市民には信仰や人生の自由がかかっていたからとも言われます。

教会の外壁には1602年に犠牲になった18人の記念碑

フランスでは今ではカトリック国の印象が強いですが映画やマンガ「王妃マルゴ」などでも描かれているようにカトリックとプロテスタントとの間の内乱の時代もありました。弾圧されてフランスの新教徒(ユグノー)の一部はジュネーブを含むスイスの北西部に逃げ、彼らの技術により時計産業が興りました。

Place Bel-AirとPlace Neuveを結ぶCorraterie通り スイスの国旗と黄色と赤に鷲と鍵のジュネーブの旗

Savoyardのジュネーブへの攻撃には、有能なユグノーを受け入れ発展し続けるジュネーブへを分捕る目的もあったしカトリック対プロテスタントの部分もありました。もし、1602年にジュネーブがSavoyard=カトリック教徒のものになっていたら?有名無名の亡命者を受け入れ、国連を始めとする数々の国際機関を擁する現在のジュネーブは無かったんじゃないかなあ。

Corraterie通り、上の写真と反対側の壁に18人の記念パネル

ジュネーブは1602年以降独立していましたが1798~1815年まではフランス領、1815年にスイス連邦に加わりました。フランスでもスイスでもなく「ジュネーブ人」との意識はこの辺りからも来ていると思います。

Compagnie de 1602、1602委員会公式HP: https://www.1602.ch/wp/

写真は前半が2011、2012年のEscaladeの時。後半が2019年12月

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