峠で一泊したら下ります。徒歩での出発が心配されるような曇天で案の定途中で雨に降られました。バス停を離れてまもなく「Cappella dei Morte 死者の教会堂」があります(写真撮ってない)。最初に文書に登場するのが1577年。教会堂とは言っても簡素な石造りの小屋の様で、冬に行き倒れた人を春まで安置した場所でした。ここは平坦な部分の端、いよいよ下り始めます。
Val Tremola・Tremola谷とそこを流れるFoss川に沿って下ります。谷の反対側には1953~1977年にかけて建設された一番新しい自動車道(雪崩や落石対策で半トンネル状態)が真っすぐに走ってるのが見えてきます。
Foss川を2回渡ります。写真だと怖そうですがちゃんと橋があるので大丈夫。この橋は、つまり大昔からある橋ですね。Foss川はTicino川の支流で、峠の周辺にある湖の一つに源流があります。
川を渡ると見えてきた!Via TremolaにはVecchiaとnuovaの二つあり、くねくね道はTremola vecchia「古いTremola」。1827~1832にかけてTremolaの谷にへばりつくようにつくられ、ほぼ全域石畳で覆われています。
歩く道はTremola vecchiaを横切って下りていきます。ちょっと下りてから振り返ってみたところ。Tremola vecchiaは8%の傾斜、24のヘアピンカーブで300mの高低差を駆け降りてます。現役ですが今は自転車が通ることが多いです!何回も書いてますがGottardo峠越え経路だけが「道」ではない!1799年のSuvorov将軍の行軍で壊れた際、Uri州は壊れた個所を補修して済ませていました。ところが1815年のウィーン会議の後、グラウビュンデン州はSan Bernardino峠に大規模な新道をつくり、馬車で通れるようにしました。馬車道は徒歩道と異なり多少距離が長くなっても差支えがありません。南北縦走路にはSplügen、Simplonなど他の峠もあり、馬車の時代になると最短距離を誇るGottardo峠経路の優位性は低下しつつありました。危機感を抱いたTicino 州の強い要請により1818年にはAmsteg-Göschenenの車道、1826~30年にかけてGöschenen~Giornico(この先南にある)間が完成、全行程が馬車で通れるようになりました。1842年には10人乗りの5頭馬車がComo(イタリア側の国境の町)~Flüelen間が23時間で駆け抜けていました。1835年は郵便馬車が週2日、1849年には毎日!通るようになり、1857年には年29000人が郵便馬車を利用しました。1882年に鉄道が開通すると郵便はトンネル経由で列車で運ばれるようになり、1921年に馬車サービスは終了しました。が、翌年には早くも車による郵便バスが始動。1980年には車用トンネルも開通しましたが、ありがたいことに峠越えのバスは今も走ってます。
右下にちょこっと写ってるのが石畳の道で、間にかなりの断崖の谷を挟んで対岸のTremola nuova真っすぐな新道が見えますね。新道に沿ってもハイキング道があるので、こちらを歩くとくねくね道全体の写真を上から撮れると思います。
クネクネ道の終わりまで来ました。
次回はAiroloまで歩きます。
歩行と写真は2012年6月下旬