湖畔から州道と線路を越え、そのまま少し上がっていくと
奥に教会が見えます。
突き当りが広場(小さい)になっていて、
右の建物Maison de Rivazは1752年につくられ、
現在は町役場。
La Croix Blancheは1512年に建てられ、元々は湖の反対側、Veveyに住んでいたTornery一族の屋敷。旅籠を経て現在は警察署。古い建物が囲んでいます。
1811年に車道(州道)が出来るまでは、この狭い広場を馬や人や家畜が行き交っていました。
広場から水の流れの音がする方に進むと、すぐに国境を成すMorge(モルジュ)川にかかる橋に出ます。Pont d’en Hautは西暦5世紀頃に興ったBurgondes王国の時代に架けられ、州道ができるまではこの一帯で川に架かる唯一の橋でした。
橋の入り口、スイス側には木製のこの建物(入れません)。
反対側から見ても傾いでます。
橋を渡り切ってフランス側にはもうちょっとしっかりめのDouaneの建物。
中には電話が残されていましたが、現在は無人で誰でも入れて、ご自由にお取りくださいの本が積み上げてありました。
1475年のブルゴーニュの闘いでベルン勢力がサヴォア候領だったこの一帯まで進出し、両者の間で陣取り合戦が続きます。1569年3月のThonon(トノン)条約で、Morge川をサヴォアとValaisの境界と決定。レマン湖の船運輸送で栄えていたSt-Gingolphは中央を流れる川で2つに分けられることになりました。ちなみに現在の人口はフランス・スイス双方とも900人前後で同規模。
蒸気機関車や車の登場以前は船は物資の輸送に欠かせなく、湖上を多くの船荷が行きかっていました。対岸のVeveyの有力者がSt-Gingolphの広場に館を構えていたのはこのためです。
ペストの流行時、フランス革命時、そして2度の世界大戦時以外は、橋を通って自由に人が行き来していました。しかし第二次世界大戦で、フランスがドイツ軍に占領されるとスイスと国境を接するSt-Gingolphはレジスタンス、抵抗勢力の活動の場となり、国境は厳重に管理されましたが、密輸業者や逃亡者が密かに国境を超えていました。
1944年7月22・23日にはフランス側のSt-Gingolphで事件(Tragedie=悲劇)が起こります。レジスタンス勢力がドイツ兵を殺め、その報復として町は焼き討ちに遭います。この時は臨時に国境が解放され、フランス側のSt-Gingolph住民のほとんどがスイス側に逃れましたが残った6人が犠牲に。そう言えばフランス側には古い建物が残っていないです。先日、写真を撮りにSt-Gingolphを訪れたところ、本屋や町役場のウィンドーに悲劇から80周年記念式典のポスターが貼ってありました。このブログを書いていると時折不思議な「偶然」に出会います。
St-Gingolphから次回訪れるBouveretまでは歩いて1時間15分くらい。道は普通の森の中の道ですが、木が葉を落とした冬だったら特に、道中時折現れる湖を見下ろしながら歩けます。
注意点は途中「雪崩注意」の場所があり、春先の雪崩危険時には通行止めになってるかもなこと。その場合はあきらめて引き返すしかないです。Bouveretまで行かなくてもSt-Gingolphの町から少し上ってみると、レマン湖が大きく広く見渡せます。
St-GingolphとBouveretの間の散歩道:
写真と歩行は2024年7月中旬及び2015~2024年の様々な時期の写真が混じっています。
St-Gingolphのサイト:
エヴィアン近辺の観光サイト:
https://www.paysdevian-valleedabondance.com/?lang=en